暮らしのホウキズム / Yota Maeda 前田 陽太
箒は「掃く」「払う」が「祓う」に通じることから、古くから神聖な意味を持つ呪具として重用されていました。元々農閑工芸だったものが、庶民に畳が普及した江戸時代以降に手工業化が進み最盛期を迎えます。その後掃除機が普及する1950年代以降は活躍の場を失ったものの、箒産地は今も全国に点在しています。
なぜ今“あえて”箒なのでしょうか?
本展示は、箒産地、箒ユーザー、清掃バイト、神社仏閣の掃除コミュニティーを巡った記録です。そして、昨秋から日本家屋で箒を使う生活を始めた私自身の奮闘記でもあります。
- 「不快」「汚れ」を扱う掃除で使う道具が、日々のせめぎ合いの中で暮らしを形作っているということ
- 埃、住環境、他の掃除道具、同居人、持ち主の価値観などとの関係性によって箒の位置付けや役割が変わるということ
- 箒の長い歴史のダイナミズムに、箒職人それぞれの人生が重なり、それを手にした箒ユーザーの暮らしの中に現れるということ
…etc
箒のイズムに触れた時、あなたにとって何が響くでしょうか。
ここから新たなストーリーが生まれることが楽しみです。
ようこそ、箒の世界へ。
メッシュワークゼミ開始前と現時点とで、自分の思考や意識にどのような変化が生まれたか?
“人類学的”とは何か?がゼミ開始から今に至るまで通底する問いのような気がします。いわゆるリサーチ調査やフィールドワークと”人類学的”なそれらがどのように似ていてどのように異なるのか、日々生業として向き合われている箒産地の方々よりどこまで行っても詳しくなれないとすれば箒素人である私が調査することにどんな意味があるのか・・・
箒産地や清掃バイトへの参与、フィールドに入る時のスタンスや言動への意識、インタビューの進め方の工夫などを通じて少しずつその疑問が解消されていったような感覚があります。前提とされているものに切り込み、そこにある生から複数性を見出すこと、そしてそれを相対化すること。そういったことを通じてきっと新しいビジョンが拓けてくるのだろうと思います。
とはいえ、それを個別性に終わらせずに一般性と往還したり、具体と抽象を往還することはなかなか難しいのですが。。おそらく”人類学的”アプローチを薄く経験できたのが今回だと思うので、今後も鍛錬を積んでいきたい所存です。
Yota Maeda / 前田 陽太(人類学学徒-和箒界隈)