見えないことから考える:共有の難しさについて / Masato TANAKA 田中誠人

 
数年前、知人のお母さんに幻視の症状が現れ、幻視が幻視であることを確かめるために、懐中電灯の光をあてているという話を伺いました。懐中電灯の光は、幻視にあたることなく後ろの壁を照らすので、幻視が消えてしまうということでした。
実際には存在しないものに対して物理的に光をかざすことで、影響をあたえることができる。見るという行為の複雑さにあらためて気づかされた体験でした。
そこから「見えないこと」を考えるようになったのですが、調査を進めるにつれ、多くの場合に幻視は病気や障害の副次的な産物として発生するものであり、幻視自体が共有不可能な性質によって困難を引き起こすとともに、幻視を含めた病気や障害による困難が併存するという状況が見えてきました。そして、その困難さを共有すること自体もまた非常にむずかしいことであるということに気が付きました。
今、私が考えているのは、幻視という共有困難な知覚の存在を通すことで、より大きな「現実」の共有不可能性を見せることができないだろうか、そして共有不可能な「個別の現実」に想像力を働かせることができないだろうかということです。

メッシュワークゼミ開始前と現時点とで、自分の思考や意識にどのような変化が生まれたか?

 
もともとアートやデザインといった視覚表現に関わる中で、「見ること」について考えており、その中で上述の話を聞いたことから幻視に興味を持つようになりました。当初は病気や障害といったデリケートな領域を正面から受け止める覚悟はなく、知覚や認知といった部分に限ってのみ調査を進めようとしていました。しかしながら、調査を進めれば進めるほど、幻視を取り巻く困難な状況が見えてきてしまい、無視し続けることがむずかしくなっていきました。そこで拠り所の一つとして考えたのが人類学でした。
この数カ月の調査で、主に幻視症状のある方のご家族や、それをサポートする看護・介護関係者の方に話を伺うことができ、自身が想像していた以上の大きな困難が具体的な形をともなって見えるようになってきました。未だにそれらの困難な現実をどう受け止めて良いのか、そして受け止めた先に何ができるのかに関しては悩み続けていますが、自身の想像力の限界を痛感する日々には大きな意義があったと感じています。自分には想像できない誰かの現実が存在するということ、少なくともそこまでは想像力の手を延ばしてみることを続けていけたらと思っています。
 
Masato TANAKA / 田中誠人(週末視覚研究者)