飽きを味わう:”アレナンダッケ感”への誘い / 佐藤 瞬
忙しなく体験を切り替え続けているわたしたちにとって「飽きる」ことは実は意外なほど身近なテーマのはず。一方でわたしたちは、遭遇頻度に比するほど飽きに対して真剣に向き合えているのでしょうか。もしかすると「内面生活を豊かにする体験エピソードをより少ない時間でより多く味わうことができるほどよい生活である」という暗黙の前提が働いているせいで、飽きることは損失である、よくないことであると信じているのかもしれません。そうして見過ごされてきたり、蓋をされてきた飽きのもつ逸脱性や弛緩性から規範や前提を捉え返したら、おもしろいんじゃないだろうか?
そんな好奇心からスタートした本展示は、わたしが飽きを味わうフィールドを求めて職場、坐禅会、釣り、ミュージアムなどを右往左往してきた迷宮へのお誘いです。その旅のパートナーは「時間」・「身体」・「意味」といったものたちです。ここではきっと何かがすっきりしたり完了したりはしません。むしろ「アレ、ナンダッケ?」と意味がゆらいだり、ぼんやりしたり、緩んだりする時間になるでしょう。そんなゆったりした時間を共に過ごして、飽きてみるのもいいんじゃないでしょうか。
メッシュワークゼミ開始前と現時点とで、自分の思考や意識にどのような変化が生まれたか?
変容しゆく問いと共に線を紡ぐ地道なプロセスを歩みたくて応募したゼミ。どうしても問いに対して直観的にひらめいた答えにすがってしまっているのではないかという問題意識から、いかに問いを生成できるか、問いの変容を生み出せるか模索したいと考えていました。
この半年間は、簡単に誰かの答えにすがりたくなる自分を「フィールドで何を見るのか?」と常に地べたに戻してもらった期間でした。その中で、問いの捉え方が大きく揺さぶられることになりました。
”問いは積み上げたり、打ち立てたりするといった固形物メタファーで語られるものではなく、まるでスライムのように液状的に自分が思ってもみなかった方向にも広がっていくものなのではないか。問いがあることで、今まで接地していなかった事とも、じわじわ時間をかけながらつながっていける。そんな偶然性と時間性をもつ問いは新たな問いを招き続けることで未完了のままとなる。”(これも答えにすがっているかも…?)
フィールドと本棚を行き来する中で、意外なつながりを発見してのめりこんだり、アレナンダッケ?と既知が未知になったりすることを経た景色もまだまだ謎だらけ。きっとだから飽きないのかも。
佐藤 瞬(「問うこと=遊ぶこと」を止められない教材開発者)