神様を知らない私が、「祈り」を始めるために / Sae Suzuki
いつも未来のことばかりを考え、心がせわしなくなってしまう。そんな私が、「今・ここ」に心をとどめることの心地よさを知ったのは、インドバラナシを訪れたときのことです。
目には見えない世界を信じ、すっとした面持ちで祈りを捧げるヒンドゥー教徒の姿はまるで、混沌とした街を生きながらも、自分だけの静寂な部屋を心の中に持っているかのよう。美しい彼らの姿に惹かれ、今の心に意識を向ける静かな時間を取り入れ始めました。
しかし普段の日常に戻っては、私の心は様々な方向へ散らばっていき、せわしなくなってしまう。たくさんのモノや情報に溢れるこの社会を生きながら、目には見えないものを大切にし続けるには、どうしたらいいのでしょうか。
その答えを見つけるために、日本に住むヒンドゥー教徒の方々と時間を過ごし、彼らの持つまなざし、そして祈りの先にあるものを覗かせてもらうことにしました。この探求は、神様を知らない私が「祈り」を始めるための第一歩です。
メッシュワークゼミ開始前と現時点とで、自分の思考や意識にどのような変化が生まれたか?
宗教からとても遠いところにいる自分にとって、ヒンドゥー教徒は自分と大きく異なる他者。だからこそ彼らに興味を抱くのだとずっと思っていました。しかし、今回のゼミを通してたくさんの人と出会い、声を聴いて気づいたのは、彼らは自分にとって異なる他者ではなかったということです。
彼らが放つ言葉や哲学のようなものと触れることで、まだ言葉にはなっていなかった自分にとって大切なものや、忘れてしまっていた感情が浮かび上がっていく。彼らを理解しようとすることが、自分でも知りえない内なる自分を理解することにも繋がっているように思えました。
出会ったばかりでルーツも違う。そんな彼らを信じていいのか、分からなくなることが何度もあり、たくさん悩みました。それでも「わかりたい」という思いに突き動かされ、彼らを信じ、向き合い続ける日々。いつしか「やるしかない」が口癖になり、自分にとっての「信じる」というものとも向き合う日々を通して、自分の性格も大きく変わりました。ゼミでの変化や、気づきを経て、これから自分が進んでいく道が、予想もしていなかった方向へ向かっていくような気がしています。
Sae Suzuki(前世インドのフリーライター)