おわりはじまり、はじまりおわる(木原 ひとみ)

 

1.はじめに

 この半年間のゼミ活動を文章にしたためるということ。フィールドワークという終わりのない行為に“展示”というある種のピリオドを打ち、もう一度展示まで包みつつ、“まとめる”ということでピリオドのようなものを打つ。展示の場を“はじまりである“と書いて下さった感想をいくつか目にしたが、それと同様にこのレポートもある種の“はじまり“なのだとも思う。はじまりとおわりを記述する前に、少し私自身の「生きることと死ぬこと」についてはじめに振り返ってみようと思う。

2.生きること、死ぬこと

9歳、実父が脳腫瘍で死去 11歳、親戚のお兄ちゃんが心臓発作で死去、親戚のお婆ちゃんが服毒死(間違って農薬を飲んだらしいが自殺なのかは不明) 12歳、同級生が海で溺れて死去 20歳、幼馴染が自殺 24歳、職場の先輩が滝で溺れて死去 42歳、同級生が肺癌で死去
 私の人生において“死”というものと隣接した経験は、40代半ばという年齢からするとちょっと少ない方かもしれない。祖父母が亡くなったときも、お世話になった親戚の叔父ちゃんが亡くなった時も、母から連絡は「仕事が忙しいだろうからお葬式には帰ってこなくてもいいよ」という事務的なものだった。そういえばお葬式にも人生で2回しか参列したことがない。田中角栄氏の一億総中流思想のどまん中で生きたサラリーマン4人家族。母が無類の動物嫌いだったせいで、犬とか猫とかというようなペットを飼ったことがなく、私は命というものに対し不感だったようにも思うし、それは、“おわる”という感覚の乏しさにも繋がるようにも思う。誰かの死を目の前にしたとき、事実として存在する物質としての“死”というものだけが浮かび上がり、感情が削ぎ落とされる。“悲しみ”という感情は、例えば父の死のときは「私だけ父親がいない」という周囲との比較により生まれたものだし、肺癌で友人が亡くなったときは、周囲の友人たちの悲しさの感情が移入されただけだったように思う。“死”というものを客体として捉えるということは、同時に、“生”というものすらも客体として捉えるということである。私はそんな風に生と死が自分の内側にあるのではなく、少しだけ私と距離を置きながら、横に並んで歩んでいるかのように生まれてからの時間を過ごしていた。

3.ゼミナールへの流れ

 森に出会ってしまった時のように、2年前の冬、私は人類学という学問に出会ってしまった。
 「世界を切り取る視点は客観にはなりえず、その人の視点を通した主観でしか語れない。知識を得るという質感ではなく、わからないことはわかるためには関わることが必要で、関わることで変容する。」と語る比嘉夏子氏。「なんと人間に対して優しい眼差しを持った学問なのだろう」と衝撃を受けたのを今でも覚えている。そこからは近所のおばちゃんの若く、ワークショップに参加してみたり、ゆらゆらと私の人生の周辺に“人類学”という学問が顔を覗かせるようになった。
 当時、私は働いていた会社で2つの組織を兼務していた。50人くらいの営業組織と、立ち上げたばかりの7人の組織。新卒で入社して20年、事業撤退や会社の統合を経て、何人もの同僚の出向やリストラ、お世話になった上司のポストオフ(役職定年)を目の当たりにしてきた。なぜか私は変わらず主流の組織で“営業”と役割を担い続けている(何が主流なのか支流なのかもわからないけれど)。ただ、ここ数年、何となく組織に流れる空気が肌に馴染めないようなものを感じていた。その“何となく肌に合わない空気”を言語化できたら、もしかしたら組織を体系的に理解し、施策を作り、実行するための手立てがわかるかもしれない、そんな風な思惑でエントリーフォームを書いた記憶がある。

4.わかりたいことは何か

 ゼミナールの大半の時間は「私のわかりたいことは何か」という問いとずっと向き合っていた。  前述のように、当初私は、“組織”や“はたらく”ということをテーマにしようとしていたのだが、「“組織”の何がわかりたいのか」ということをゼミナールがはじまるや否や問われ、言葉に詰まる自分がいた。組織で流れる空気をわかりたいと思っているけれど、それは自分の内側の声からの衝動ではなく、何かの評価や期待に応答しようとしている自分に気づく。私が心から“わかりたいこと”は何なのか。これを書いている今ですら、新たな問いが生まれ、わかりたいことが常に変容し続けている気もしている。

5.他者への参与を通じて、自分に参与する

5-1.森と時間

 私にとって自らの衝動から湧き上がってくる無性に惹かれる存在は、「森」だった。  白濁とした霧に覆われた緑が隆起する山中湖の森。土の湿った香ばしいにおいが鼻を突き刺し、生い茂る緑や茶色や黒が入り混じった植物の絨毯の上に寝転がる。白い霧が立ちこめると1メートル先でも視界がぼんやりと遮られ、先が見えない。ぽつぽつと雨が顔に滴り、体の体温がしだいに奪われていく。倒木から生まれる新しい命、落ち葉が重なりながら数十年かけて腐葉土になっていく。どこからが生で、どこからが死なのかがよくわからなくなってきて、しまいには自分が森なのか私なのかもわからなくなってくる。そこから取り憑かれたように、私は毎週、毎月森に足を運ぶようになる。  私が惹かれる「森」というものをテーマに扱ってみようと決めたものの、再び、“私は森の何がわかりたいのか”という問いが立ち上がる。木のそばに座ったり寝転んだりしながら2-3時間過ごすときは、「今日の晩御飯は何にしようか」とか、「仕事でこれもやらなきゃ」とか、頭の中にいろんな事柄が浮かんでは消えていく。そうかと思えば、身体全体が重くなって意識と共に土に吸い込まれていくような感覚に陥るときもある。
ここでは時間は客観的なものではなく、自分自身の行為によってその存在をつくり出していくものなのである。そして「行為」とは何かを関係を結ぶことだ。川の流れと関係を結ぶ。畑と関係を結ぶ……。そうやって他者と関係を結びながら創造されていくのが村の時間である。ところが東京の暮らしの中では、時間は消費の対象だった。限られた時間を、いかにうまく消費していけば用意のか。いわば時間の消費効率を高めていくことが「賢い」生き方だった。時間は客観的なものでありあたかもお金と同じように消費のされ方が問われるというもの以上ではないかった。(内山節『時間についての十二章』農文協)
 内山節氏の一説が思い出される。明らかに大手町のオフィスでパソコン作業をするときとは私の身体に流れる時間の取り扱い方が違っている。「森なるもの」をわかるために、“時間”を軸に切り取ろうと試みる。
 
2020年7月山中湖の森
2020年7月山中湖の森

5-2.決める

 「森」を時間という一側面で切り取るとすると、さて、フィールドをどこにするか。森と言えば、森とともに暮らしいるネイティブアメリカン…、ネイティブアメリカンと言えばスウェットロッジ。スウェットロッジに行って“時間”というものを体験してみよう、とか。森のリトリートの合宿を観察してみよう、とか。東京の時間を切り取ったり、大崎下島の時間を切り取ったり、ふらふらと立ち寄った先の“時間”を観察することによって何かが見えて来るのではないかと、行った先々で片っ端から記録してみる。
 おわりがあるから、はじまりがある。私たちは川のように流れる時間の中で“おわりはじまる”という行為をし続けている。観察の場として選んだ中のひとつ、”スウェットロッジ”はネイティブアメリカンの生まれ変わりの儀式と言われ、女性の子宮を模したドーム状のテントの真ん中にある窪みに熱された石がどんどん運びこまれその上に水がかけられる。120℃のサウナ状態のテントで大人11人が石を囲み、22時から深夜2時過ぎまでの約時間歌い叫び願い祈り続け、最後に子宮から誕生することで自らが生まれ変わる。また、大阪で過ごした2023年12月31日23時59分59秒から2024年1月1日0時0分0秒の移行も、数字で輪切りにされる時間がおわりとはじまりを生み出している。おわりとはじまりの間で常に私が生成されつづけている。
「大事なことは何かに決めてしまって、徹底的に観察するということを行う。」
 比嘉さんから言われた1on1での言葉。いくつかの場には参与していくものの、個別具体の誰かへの参与がなかなか定まらない。特定のひとりに関わっていくことの億劫さや臆病な自分に気づく。
 「森」を多面的に捉えるにあたって、私とは異なった角度で森と関わっているであろう木こりの“ずーやん”に身を投じることを決める。共通の友人からずーやんを紹介をしてもらったものの、友人とずーやんが築いてきた大切な関係性に割って入るいう重圧がのしかかる。フィールドワークという程のいい言葉で、すでにある関係に新参者がずけずけと入り込んでいくことの自分の暴力性にいたたまれなくなる。

5-3.比較評価する

 常に私は何かと比較し、何かを評価している。  森と森ではないもの、Outlookの予定表に埋め込まれた四角い時間と、自然の中で感じる移ろいゆく時間。全てが包含され繋がっているという立場で論じたいという気持ちとは裏腹に、二項対立で分けようとしてしまう。ゼミ生の皆さんが自分のフィールドを決め、毎日のように足を運び参与している姿をDiscordで見るたび、そして、誰かの展示の細部にまで丁寧な表現を見るたびに、焦りがつのり、できていない自分への不甲斐なさが湧き上がる。目の前に立ち現れる対象をそのままで受け取りたいと願いながら、裏腹な自分。私は一体、何と戦っているのだろう。

5-4.感受する

 観察し、感受する。
 年の瀬に差し掛かった12月、個別具体の誰かをきこりのずーやんにすると決め、ボランティアに参加することにする。高尾山の麓での森のボランティア。12月は剪定鋏を使って竹林の伐採作業をやり、2月は枝や葉っぱを編み上げながら土手を作っていく作業。各自黙々と作業を行う時間が多く、私は何を観察したらいいのかとわからなくなってくる。自分の作業に集中しながら、同じ時間を分かち合う。
白があるのではない。白いと感じる感受性があるのだ。だから白を探してはいけない。白いと感じる感じ方を探るのだ。(原研哉『白』中央公論新社)
 森での作業はまたたく間に過ぎていく。ある程度慣れてくると、思考の前に手が知能を持ったかのように動作する。ずーやんから1mくらい離れて横並びに作業しながら、たまに私の投げかけた言葉からどんどん話が発展して、私は“うん”とか“そうですね”とかしか言っていないのに、会話が転がっていく様が面白い。話すということをどっかに放り投げて、私はただそこに心地よく漂っている物体になる。漂ってしまうと、あれよあれよと必死に感受しようとしたものが記憶から抹消されて、頭の隅っこにはターコイズブルーのアメリカンスピリットの箱から煙草を取り出して一息つくずーやんの姿、そして黙々と作業し続ける丸みを帯びた背中とか、柔らかな声のトーンとか、漠然とした何かが身体に刻まれる。
内側と外側というのは完全に矛盾関係ですよね。ところが、内側が外側を包んでいるわけですよ。内側でありながら外側を包んでいる(池田善昭・福岡伸一『福岡伸一、西田哲学を読む』明石書店)
 「感受しよう」と能動的に情報を採取しようとすると、意識の間からこぼれおちる無意識がある。受動的に場にゆだねると、一言一句なんて何も覚えていないのだけど、共に過ごした体験が生み出され続ける「時間」というものに包み込まれていく。

5-5.保留する

 どこかの書籍、どこかのネットで見た言葉。私の言葉はどこかの誰かの参照の言葉になっていやしないだろうか。私の言葉は、私の体験からしか生まれてこないはずなのだけれど、それが自分の内臓と一致しているかどうかと、確かめる。思考だけの言葉になっていやしないかと、いちいち確かめる。いち側面からの解釈が私を煩わせる。それと同時に、撮影した映像を見ながら解釈すらできないことが私を煩わせる。”ただ観る”ということの難しさ、そこに私の視点が入ってしまうことによって大切な何かがこぼれ落ちていやしないかという不安がいつもよぎっていた。
参考文献たち。借り物の言葉になっていやしないかと葛藤する。
参考文献たち。借り物の言葉になっていやしないかと葛藤する。

5-6.ゆだねる

 ゼミの制作展2週間前ですら展示の概要が何も固まらず焦りだけが積み重なり、今までのフィールドノートをとりあえず印刷して、読み返しては「ここから何かサマれるんだっけ?」と絶望する。私のフィルターを通して見た世界の表現とは一体なんなのか。
 自分自身を信頼していないということは、他者を信頼していないということに繋がっている。誰かへ怖れを抱くときは、きっと誰かも私を怖れているだろうし、誰かに心を開いているときは、誰かも私に心を開いてくれている。今思うと、私が作った制作物は支離滅裂だったり、意味が通じなかったり、背景がわからなかったり、もっと丁寧に作り込めばよかったのだろうけれど、そのときの私にはそれが精一杯だった。目黒に産み落とされた私の作品やゼミ生みなさんの作品、何かがそこにあることによって、それを囲み、関係し、対話が生まれ、作品自体がその人の物語の一部になっていく。空から降った雨水が木を伝い、土壌に吸い込まれて行くように、誰かと交わる体験が身体の中に入り込んでいく。
 目黒で行った展示会の2週間後、偶然小布施で開催される予定になっていた別の展示会に作品を持っていく。目黒の300人とは打って変わって、(告知もしていなかったので)来場者は10人にも満たない小じんまりとした展示だったけれど、それでも場があることによって誰かと新たに出会い、再び出会い直し、今日とは違った未来が続いていく。
目黒のメッシュワーク人類学ゼミ展での“場”
目黒のメッシュワーク人類学ゼミ展での“場”
小布施で実施した小栗八平衛商店での“場”
小布施で実施した小栗八平衛商店での“場”

5-7.行き来する

 展示では大崎下島から送られたレモン60個に、マスキングテープに書いた未来の日付を貼り、質問に答えて持って帰ってもらうということを行った。質問の内容は敢えて過去形で記載し、今から未来に意識を向け未来を過去形で問われるという、過去・現在・未来を行き来してもらうような仕掛けをした。
 レモンには“2024.04.13”のように数字の羅列を記載していたのだが、その数字を「母の61歳の誕生日」や「祖母の家」と極めて個人的な何かと紐づけてる方もいれば、“そのそき、どんな音が聞こえましたか”という3つ目の質問では「無音」という音や「シーン」という静けさの中で聞こえる耳鳴りの音を書いてくださった方もいた。レモンから受け取った景色から、過去を思い回答してくださったのだろうか、それとも未来を思い回答してくださったのだろうか。

▼参加者にやっていただいたことの手順
  1. レモンをひとつ手に取り、記載された“未来”の日付を見る。
  1. “現在”から“未来”に想いを馳せる。
  1. “未来”に想いを馳せながら、“過去形“で記された質問に回答する。
▼質問項目
  1. あなたの世代を教えてください。
  1. レモンに書かれてある“とき”を教えてください。
  1. そのとき、どんな色を感じましたか。
  1. そのとき、どんな音が聞こえましたか。
  1. そのとき、どんな香りがしましたか。
  1. そのそき、あなたはどこにいましたか。
▼回答
(回答抜粋)
レモンに書かれている“とき”どんな色を感じましたか。どんな音が聴こえましたか。どんな香りがしましたか。あなたはどこにいましたか。
20240319虹色温かい音温かい香りいま。いまより温かい気持ちになれる未来をかんじる。
20240321オレンジがかったピンクふわ〜ちょっと木のような、ぬくもりの香りログハウス
20240322黄色波の音ミモザ海の中
20240323薄い茶色雑音苦味のある香り空中
20240324黄色レモン彼方
20240325どうしても黄色🟡ガヤガヤ無臭どこかは分からないですが友人に囲まれていました!

 
みなさんに一つお持ち帰りいただいた大崎下島のレモン
みなさんに一つお持ち帰りいただいた大崎下島のレモン

6.おわりに

 人類学ゼミナールに参加した半年が終わり「仕事でどう活かすの?」と何人かに尋ねられる。汎用的なフレームワークを学んだわけでもなければ、資格を取得したわけでもないし、これで一億稼げるかでいくとそんな話でもない。何かを学べば経済的な貢献価値、とりわけ貨幣での価値転換を要求される。「わかりたいことは何か」を問うことの前に「何のためにわかりたいか」という経済価値との交換を前提とした目的が必要とされる。知的好奇心や探究のために学ぶということは経済価値とは距離の遠いものとみなされる。
 ゼミナールを通じ、どこに帰結するかわからない中で、「こっちに行った方が面白いかもしれない」と自らの感受性に従いながらメインストリームから外れてみることを受容することや、別の側面から同じ対象を見ることにより自分の視点の特異性と盲目さに気づくこと、自由の使い方と同時に自由であるが故の苦しさを手に取った。関わることによって変容しつづける関係を受け取り続け、文字に記すことによって自覚する。他者を介して自分をわかろうとし、自分を介して他者をわかろうとする。私は何を観ているのかと自分に問い、誰かの言葉で意識下に眠っていた点が浮かび上がり繋がっていく。他者との関わりの中で自分の輪郭が立体的になっていくと同時に、他者との境界も曖昧になっていく。絶え間ないその繰り返しの中で私の“生きる”ということに血が通い、生々しく人間であるということが立ち現れつづけていた。
 制作展という“期限”というものが外側から既定されると“おわり”が突如として立ち上がり、“おわり”に向けて生きているということの証明がなされていく。けれども、“おわり”は実は“おわり”ではなくて、意外とあっけらかんと出迎えてくれて、“おわり”はただ通過するひとつの点でしかなくまた別の日常が地続きで立ち現れてくる。
とにかく細胞というか生命というのは、壊すことに一生懸命なのです。どんな場合であっても壊せるようになっている。なぜかというと壊さないと、エントロピーを捨てられないし、次が作れないから。だから、壊すことが唯一、時間を前に進める方法なんですよね。(池田善昭・福岡伸一『福岡伸一、西田哲学を読む』明石書店)
 客体として扱っていた死と生が、“おわる”ことによって生成されつづける“いきる”と触れ合うことによって、自分の内側で起こる死と生へという存在が混ざり合っていく体験だったようにも思う。
 
本当にさいごに…
問い続け、保留し、手放し、再び問い直すという苦しくも楽しい半年間。私の人類学の旅を一緒に歩んでくださったずーやん、株式会社森への皆さま、大崎下島の皆さま、スウェットロッジでご一緒した皆さま、OICの皆さま、森と踊るの皆さま、PERSOLの同僚の皆さま、比嘉さん、水上さん、まみさん、田口さん、kenkenさん、Kanaokaさん、Beppuさん、Kawabata さん、Nakajimaさん、村上さん、美沙樹さん、そして全ての関わってくださった皆さまに、感謝の意を表したいと思います。
 
おしまい。