分かろうとし続けた6ヶ月、前向きな諦めと覚悟(Emi Kobayashi)

自分のフィルターに向かう

ゼミも終盤に入った1月半ば、私は他のゼミ生に今まで自分が彼ら(分かろうとする対象として選んでいたベトナムメンバーやベトナムの方々)について観察を重ねて分かったことを共有をしていた。
一通り話し終えて渡された言葉は「えみさんずっと自分のこと話してます?」であった。この時私は、私が持っているフィルターの圧倒的な存在感と、その分厚さに衝撃を受けた。
彼らのことを知ろう、わかろうと観察し、ときには質問を投げかけてきたけれど、一向にクリアに見えてくることはなかった。それは、自分がどんなフィルターを通して彼らを見つめていたのか気づいていないからであった。誰しも自分のフィルターを持っている。人生全部が乗っているフィルターである。完全に外すことはできないが、そのフィルターがどんなものであるかを知ることは、知りたい対象が生きる世界をそのまま受け止め理解することの助けになりそうだ、そう感じ、私の研究はラストスパートに入って行った。
自分の中のフィルターをなんとか表現したいと思っていたらこんな形になった。こんなものをかけていたら、相手が見えないのは当たり前である。
自分の中のフィルターをなんとか表現したいと思っていたらこんな形になった。こんなものをかけていたら、相手が見えないのは当たり前である。
より目の前にいる人々を理解するには、このフィルターがどのようなものであるか、それをかけた自分という人間はそのフィルターによってどのような世界を見て、感じて、他者と関わっているのかについて知る必要がある。フィルターの中にはあまり向き合いたくない思考の偏りやそれを作り出した苦い経験も含まれている。
短い期間ではあったけれど、精一杯自分という人間と向き合い、自分がどんなフィルターを持っているのかわかろうとする活動を行っていった。メガネのように簡単に取り外せるものではないけれど、私の人生で起きた出来事とその時の記憶や感情を書き出して眺めてみると、実に様々な出来事、モノ、人々の中に自分を置いてきたことがわかった。また、自分を役割で切り取ってみるのではなく、一人の人間として捉え直し整理をしたりもした。その過程は私にとって、彼らをより多面的に捉えるための準備期間のようなものであったと感じている。

役割の声と一人の人間としての声

この、「役割ではなく一人の人間として捉える」というのは言うと簡単だが、とても勇気と覚悟のいるものだった。私は、アジャイルコーチという役割の帽子を被って、彼らの働き方を変えようとしていた。それが、「役割ではなく一人の人間として捉える」を実践しようとした時、働き方の根底には、生き方があると言う、紛れもない事実に出会った。働き方を変えるのは、生き方を変えるということだというのに気づいた時は足がすくんだ。しかし、すでにずっと前に気づいていたのかもしれない。他人の生き方を変えるなんておこがましい、自分の生き方に自信がないのに人に影響を与えるなんてしていいんだろうか、そう感じていた。向き合うのが怖くて、見ぬふりをしていたのかもしれない。だからこそ私は、彼らを仕事のみのコンテキスト(モニター画面の中)で切り取り、「私の影響はここの範囲だけ、失敗したってここの範囲だけ」そう自分に言い聞かせていたのかもしれない。 この範囲を広げる勇気は、私にはなかった。そして、まだない。向き合って知り合えば知り合うほど、そのままでいてほしい。変化に囚われ続けていくのであれば、私の仕事は、そこにはないのかもしれない。
彼らと働き始めたときに、「彼らはきっと変わりたいとは思っていない」そう感じたのを覚えている。これを思ったのと同時に、私の役割はここでは必要とされていない事にも気づいていたように思う。私は今、この、認めると全てが覆ってしまう事実に再度立ち戻ってきたわけだが、気分はとてもいい。私はこれからも、ずっと彼らと一人の人間として向き合い続ける。役割の帽子を変えても、向き合い続けることはできるのだ。違う帽子を被ってみては、彼らと向き合い言葉を交わし、彼らの新しい一面と出会う。私は彼らと出会い続け、彼らを通して自分の新たな一面とも出会い続けるのだと思う。
私がベトナムで向き合った彼らは、いろんな一面を見せてくれた。私は、何度も彼らと出会った。
私がベトナムで向き合った彼らは、いろんな一面を見せてくれた。私は、何度も彼らと出会った。

ゼミに参加して私の中に芽生えた覚悟と自信

と、綺麗に終わらせたと思ったが、もう一つ皆さんとシェアしたいことがいくつかある。
ゼミを通して、人と、自分と向き合い続けるのはとても体力が要るということを学んだ。ゼミでなければやめてしまおうかな、と思う瞬間が何度も訪れた。ゼミが終わってからもそんな瞬間は訪れ続けている。
つい最近訪れたそのような場面で、私は自分の中の変化に気がついた。簡単にいうと、以前より伝えたいことを伝える覚悟と勇気がついていた。それは、役割が話しているように見せかけて渡す言葉は、分かり合うという活動においては助けにならない、ということをゼミを通して痛いほど学んだからである。役割としての声ではなく、自分の人間としての声を渡さないと相手には届かない。今までであれば、もっともらしく整理された「どうあるべきか」の声を、役割の帽子を被って会話を始めていただろう。しかし今回は、私の一人の人間としての声を文字にしていた。文字にして渡してみて、やっぱり声に出して、自分の全てで渡したいと強く思い、呼びかけ、話し合いの場を設けた。
役割の帽子をかぶりどうすればいいのかを話し合う場ではなく、できるだけ帽子を取り、一人の人間、個人としてどう感じたのか?を共有する場にしたかった。少し勇気を必要としたが、私には覚悟があったし、自信があった。分かり合おうとするのであれば、一人の人間として向き合う場が必要であり、その場をしっかり持てれば必ずお互いをわかろうとする活動は進んでいくのだ。
一人の人間として感じたことを出し合う場を設けた後、その日の最後に行ったふりかえりで出た付箋。この付箋を見て私の自信は確信へと変わりつつある。
一人の人間として感じたことを出し合う場を設けた後、その日の最後に行ったふりかえりで出た付箋。この付箋を見て私の自信は確信へと変わりつつある。

最後に

きっとこれからも人と向き合おうとしてうまくいかないという経験をしていくだろう。その度にきっと私はこのゼミでの経験を思い出す。
いい意味で私は諦めている。役割としての声だけでは相手には届かない。役割で切り取った相手をいくら観察しても、すぐ限界が来る。一人の人間として向き合う覚悟ができて初めて、わかろうとする活動が始まるのだ。私はまだスタートラインに立ったばかり。正面から人と、自分と向き合っていこうと思う。もうどれだけ揺さぶられても、私はきっと諦めない。
展示の中にいる私。この展示が立体的でごちゃごちゃとしているのは、綺麗にまとまっていない私の頭の中を表している。
展示の中にいる私。この展示が立体的でごちゃごちゃとしているのは、綺麗にまとまっていない私の頭の中を表している。