焚き火を綯う(ken ken)
半年の歩みを振り返って
書くことに苦手意識のある自分が、書き記しておきたいと思えることがたくさんある。この半年間は、とにかく得るものが多く、そのひとつひとつが本当に貴重で、得難いものだった。そしてそれらは、自分がこれまで頑なに、あるいは無意識のうちに握りしめていたものたちを、ひとつずつ手放していった結果として手元に転がり込んできた、というような感覚がある。まだまだ言葉にできそうにないことも多いが、いまできる範囲で、振り返りレポートとして記すことを試みる。
半年の歩みを振り返って生きるということ人類学的フィールドワークの「健全さ」“correspondence”という指針問いよりもまず旗を立てよ「問い」の位置づけすでにある「問い」に出会う旗を立てる問い? → (白)旗 → 転がり出す… → 応答「わかり方」にまつわる雑記多色刷り版画のように他者をわかろうとする?スイングバイメタモルフォーゼ寄り道、そぞろ歩き手放す思索・試作・詩作地図を描いては消す 自分の過剰投資謝辞に代えて親愛なるインゴルド先生複数の生が重なりあうところむすんでひらいて
生きるということ
中井は、「生きるということは、予感と徴候から余韻に流れ去り索引に収まる、ある流れに身を浸すこと」と言いましたが、そこで語られる「予感と徴候」、「余韻と索引」の関係について考えることは、今の検索型の世の中において、「知らないもの関係ないと思っているもの」に対して興味を喚起する大きなヒントになると思います。 幅允孝『差し出し方の教室』
ゼミ展が迫り、展示での「差し出し方」のヒントを求めて(半ば現実逃避的に)この本を読んでいて、医学者・精神科医である中井久夫による「生きること」の定義に触れたとき、ずっと手元に置いておきたい一節だと感じた。それからすぐに、これは自分がこのゼミを通して体験してきたフィールドワークそのものだと思い至った。以下がそのイメージ。
何らかの「予感」(「不存在の存在」、問い以前の「なんとなく気になる」という感覚)を持って「フィールド」に赴き、そこで起きていることを全身で体験する。
そうして本当の意味で「参与」しているとき、ただ「その時、その場所」に没頭していると同時に、必死に「徴候」(「存在の不存在」、「これだ」と感じる何かへの手がかり)への感覚を研ぎ澄ませているようにも思う。
(参与しながらのほぼ唯一の記録作業として、写真を撮っていった。これは「徴候」を後のために保存しておく作業とでも表現できそう。)
「フィールド」から帰ってきて、体験してきたことの「余韻」に浸りながら、あるいはより能動的に記憶を手繰り寄せながら、フィールドノートと呼ばれる記録に残していく。
(記録のために録画や録音をすることはなかったし、メモを取ることもほとんどなかったので、ほとんど自分の記憶を介して記録化する作業だった。その中で、写真を見返すことで思い出される会話や、撮った時点では意識化されていなかった気づきのようなものが得られることも多かった。)
言い換えれば、自分個人の固有の体験を「索引」に収めていく。ただしここでの「索引化」は、ただちに分類したり、分類されたものに名札をつけるような作業とは一線を画す。むしろ(ひとまずは)そのような作為性をなるべく持たないまま文字に起こす行為だと捉えていたと思う。
その作業の最中で、あるいは「フィールド」から「デスク」にたどり着くまで、もしくは「デスク」からまた「フィールド」に戻っていくまでの過程のにおいて、次の「予感」や「徴候」を感じ取る。
以上を繰り返していくなかで、何かが少しずつ、ときに突然に、わかっていき、またわからなくなっていく。
人類学的フィールドワークの「健全さ」
このゼミを通して、こうしたフィールドワークは「健全に生きていく」ためのひとつの方法(あるいは態度や姿勢)であると思うようになった。
ゼミの半年間の折り返しを過ぎてから体調を崩し、適応障害(仕事に起因する抑うつ状態)と診断され休職せざるを得なくなった。少し回復してくると、むしろそうして時間ができたことでフィールドワークが重ねられるようになり、その結果なんとか展示までこぎ着けることができた。そのような一連の経験の上に、いつのまにか本来の自分を取り戻すことができたと感じられる状態になっている。つまり。元気になったのはこのゼミのおかげと言っても過言ではないと思っている。(ただし、そもそも調子を崩した一因として、2歳児のいる家庭と仕事に加えてこのゼミの負荷や思うようにフィールドワークに行けないフラストレーションがあった可能性は否定できない。)
人類学的なフィールドワーク(フィールドとデスク/具体と抽象/からだとあたまの往復)がとても健全な営みであるという感覚は、この実体験に拠るところが大きいと思う。その一方でこのゼミの活動が「認知行動療法と似ている」という話に、この半年間で複数回触れたことも、ただの偶然ではないと思っている。(なお、ここで述べた健全さ云々に限らず、このゼミを通して自分が体験したのは、あくまで「メッシュワーク流の」人類学的フィールドワークであり、本レポートはそれに基づいたものである点には留意したい。)
“correspondence”という指針
ゼミに参加する数ヶ月前まで、ニューヨークにあるデザインスクールに留学していた。留学前にいろいろな方向に興味を広げていた時期に、特別な縁を感じているカフェ兼書店(胡桃堂喫茶店)で人類学者インゴルドの『メイキング』に出会った。漠然と「つくる」ことについて考えていて手に取った一冊だったが、振り返ればこれが自分にとっての人類学との遭遇でもあった。このときは、人類学という学問そのものよりも、インゴルドが語る「correspondence:応答」という概念に強く惹かれた。
その印象はとても深いもので、留学先のMFAプログラムの修了要件となっているデザイン(・リサーチ)プロジェクト(修士論文に相当)においても、correspondenceを実践していくことそのもの、あるいはcorrespondenceを重ねていくことで何かを探究することが、自分にとっての裏テーマであり拠り所になった。しかし、このロジェクトでは、自分が思い描いていたような「correspondenceの実践」は叶わなかった。
リサーチテーマを考えあぐねているときに、学科長から「いま、時間やお金などの制約が一切ないとしたら、何をしたい?」と問われ、とっさに出た答えが「焚き火がしたい」だった。そうして「都市における焚き火」というテーマが浮かび上がってきた。しかし、その当初からの問題意識のとおり、ニューヨーク市という大都市ではそもそも焚き火のある(できる)場所が見つけられず、焚き火や、その火を囲む人々とのcorrespondenceの機会を得ることがほとんどできなかった。
この経験から、帰国する頃には、2年間の大学院留学で親しんだデザインやアートといった領域と同等かそれ以上に、人類学というものへの関心が強くなっていた。そんな中で、メッシュワークという会社の存在を知った。「メッシュワーク」は『メイキング』の中でも触れられているのに、当時はそのことを認識していなかった。でも、まさにインゴルドから社名をもらった、人類学者二人による会社があって、その二人が社会人向けの人類学ゼミを主催していると知ったとき、これしかないと思った。ゼミでの半年間を振り返って、その直感は正しかったと思う。
問いよりもまず旗を立てよ
「問い」の位置づけ
(まず、今回のメッシュワークゼミ第2期の副題が「人類学的な参与観察によって問いをアップデートするトレーニング」だったことには一応言及しておきたい。)
問いには、「何がわかりたかったのか」という、なんらかの行為に対して事後的な形でしか捉え得ないものもあるのではないか。
そんなことを、比嘉さんとの最後の1on1の後にふと思い、お伝えした。そして、そういう類の問いは、事前に用意できる(立てられる)ものではないが、かといって「フィールド」に転がっている(行けば必ず見つかる)わけでもない気がしている。
留学で学んだデザイン・リサーチと呼ばれるリサーチ手法においては、”How Might We”クエスチョン(「どうすれば〜できるだろか?」)に代表されるような「問い」をひとまず立てることからリサーチが始まる。そして、デザイン的なプロセス(ワークショップやプロトタイピングなど)を通じて、その問いを更新していく。デザイン・リサーチが遍くそうであるとまでは思わないものの、少なくとも自分が学んできた「デザイン主導リサーチ」(Design-led Research)では、このような形で問いというものがリサーチの中心にあったように思う。(これは、なんらかの問いに答える(少なくとも答えようとする)のがリサーチというものである、と考えれば、至極当然のことかもしれない。)
これとは対照的に、メッシュワークゼミでは、(その副題とは裏腹に)問いについて議論したり、言語化を求められたりする機会がほとんどなかったように思う。その代わりに、フィールドワークという営みがゼミ活動の中心にあり、その中で触れたもの、体験したこと、それを通じて感じたことや考えたこと(往々にして言語化が難しかったりするあれこれ)について共有し、(多くの場合わかったことよりもむしろわからなさについて)議論してきた。
では、このゼミにおける個々のプロジェクトにおいて、いったい「問い」はどこにあったのか。どのようなものだったのか。このような「問いについての問い」に対する自分なりの答えが、上述の「事後的な形でしか捉え得ない類の問い」である。
すでにある「問い」に出会う
「応答」を辞書で引くと
問いや呼び掛けに答えること。うけこたえ。 (日本国語大辞典)
とある。この定義から連想すれば、correspondenceとは、実は無数に存在している「問いかけ」に耳を澄ませ、それら一つひとつにこたえていくことだと言えるのかもしれない。そう考えると、リサーチの起点として「どうすればよい問いが”立てられる“か」といった「問い」自体が、向き合えるかもしれない問いの範囲を狭めてしまうと言えそうだ。自分で「立てる」ものではなく、「出会う」必要がある問いがあるから。つまり、「なんらかの行為に対して事後的な形でしか捉え得ない」のは、フィールドに出てみないと出会うことができない、世界の中に、あるいは自分自身の中に、「すでにある」問い、ということなのかもしれない。
旗を立てる
なんともつかみどころのない話になってきている気がするが、「じゃあどうやってそういう「問いに出会える」ようなフィールドを探せばいいのか」という疑問への回答は、実はゼミの序盤ですでに提示されていた。
最初はどこにでもいいから、まず「旗を立ててみる」(ことが重要)。そうすればそれを起点として必ずどこかに向かっていく。仮説(の質)がすべてを決める、のような構図ではない、「仮説検証」や「課題解決」とは違う「世界のわかり方」がある。
これは、9月末の、ゼミとして3回目のオンラインミーティング(講義?)で比嘉さんが話してくれたこと。課題図書を読んで議論することが中心で、まだフィールドワークの実践に入る前の段階だったこの時点では、この「旗を立ててみる」ということの意味がわかっていなかった。
展示からもすでに一月が経過しようとしている今思うのは、たぶん、本当に「どこでもよかった」ということだ。とにかくどこかに出向いてみる。なんとなく興味がある場所でも、なぜか気になる活動やグループでもいい。これが(とりあえず)「旗を立てる」ということ。そうすれば、そこであなたが反応(応答)するもの(こと)が必ずある。そこに「問い」がある、というか、その反応した対象こそが「問い」(問いかけ)である。
何を見てきましたか?
どんな音が聞こえましたか?
どんなことを感じましたか?
どんなことが気になりましたか?
どんなことを考えましたか?
フィールドノートの書き方指南だと思っていた、比嘉さん・水上さんからのこうした投げかけは実は、答えていくとその答えのいくつかは「ひとまず向き合うべき問い」になっているという、手品のような仕掛けになっていた。「これこれがこういう理由で気になる」といった言語化が十分にできなくても、フィールドノートを起こしてみると、「こういうことに関する記述が厚い(薄い、まったくない)」といった形で、自分の関心の在り処や方向性が浮かび上がってくることもあった。
以下、私自身の体験を具体例として簡単にまとめてみる。
問い? → (白)旗 → 転がり出す… → 応答
「焚き火について何がわかりたいか」を考え続けることをやめて、「焚き火ができる場所」を探すことも諦めて、ひとまず「火のある場所」に行ってみた。これが「旗を立てる」。
留学中のデザイン・リサーチ
- どうすれば都市での日常生活に焚き火を取り戻せるだろうか? (デザイン・リサーチにおける起点としてのHMWクエスチョン。)
- そもそもなぜ自分はそこまで焚き火にこだわっている(もはや取り憑かれている)のだろうか? (この問いをきっかけに、仲間たちの力を借りて焚き火についての絵本をつくってみることを思い立った。そしてその試みが結果的に修了プロジェクトの大部分を占めた。でも、結局この問い自体は自分の中に残り続け、ゼミに持ち込むことになった。)
「フィールド」が見つからない
- (都内の)自分の生活圏内で焚き火ができる場所はどこにある? (焚き火をしている人たちを観察したり、一緒に火を囲むことができれば、留学時代の問いが更新されるかもしれないと考えた。結局。ここだ、という場所は見つけられなかった。頼りにしていた公園は「安全第一」の下、焚き火ができない状況にあった。)
旗を立てる
- とりあえず古民家(民家園)の囲炉裏の火に当たりに行ってみよう。 (「旗」を立ててみた。でも、最初に行った次大夫堀公園民家園の囲炉裏の火は、それを囲む人たちもおらず、味気ないと感じた。それでも、民家園を訪れてみて、「高級住宅街」というイメージが世田谷という地域の一面に過ぎないということに気づかされた。)
- 次大夫堀公園民家園の敷地内で活動していた『鍛冶の会』が気になる。 (旗を立ててみた「囲炉裏の火」そのものには惹かれなかったが、そこまで足を運んでみたことで「気になるもの」に遭遇した。)
- 岡本公園民家園の炉端で藁仕事(草履づくり)をしている人がいた。 (世田谷区内にあるもう片方、古民家一棟だけの民家園。穏やかに火が焚かれている囲炉裏の近くで藁仕事をしている人がいる「風景」がなんとなくいいなと思った。)
転がり始める
- 藁仕事(藁から縄を綯う方法)を教えてもらいに行ってみよう。 (休職期間が始まった。間違いなく「休め」というサインだった。「焚き火ができる場所探し」はもう諦めようと思った。それでも区内の民家園だっから無理なく行けるなと思ったときに、藁仕事のことを思い出した。)
- 藁仕事と焚き火(囲炉裏)はセットだな。 (実際に体験していくうちに感じたこと。初めて教えてもらった日、家でも練習しようと藁を少し分けてもらったが、結局やらなかった。家には囲炉裏がなかった。民家園の囲炉裏の傍らで手を動かしていて、ふと視線を上げたときにその火が遠目に見えることのあたたかさ。焚き火が文字どおり家の中心にあった当時の農家のくらしに少しだけ触れることができた気がしたし、それによって焚き火というものがこれまでとは違った視点から捉えることができた。)
何かが不意にわかる
- 焚き火とは、人と火とが撚り合わさった「縄」である。 (一対の藁の束が撚り合わさったものが縄。それぞれの束に藁を継ぎ足していくことで長い縄ができる。考えてみれば当然かもしれないが、焚き火が焚き火であるためには、そこに火があり、人が(独りでも複数でもいることが必要。くべられる薪の一本いっぽんが火という一方の「束」として、都度その火に当たったり薪をくべる人たちがもう一方の「束」として、「綯い交ぜ」になった状態を「焚き火」と呼ぶ。)
- 焚き火とは、「複数の生の重なりあい」(”life of lines”(インゴルド)の結び目や絡まり合い)を生むことで、総体としてメッシュワークを生成していく仕掛けである。
この一連の、問いが変化し、消失し、そして唐突に「答え」が出現するまでの過程は、明らかに「仮説検証」や問いを中心にした(問いドリブンな)リサーチとは異なる。なぜ?どうやって?何が?といった形で明確に言語化された問いに答えていくことに主眼はななかった。それにもかかわらず、たどり着いた「答え」は、もともと持っていた「自分にとっての焚き火」についての問いに対する応答になっている。(この「応答」に、(学術的などの)客観的な価値があるかどうかは知らない。ただ、何かが不意に「わかった」(頭の中で新しい回路がつながった)というたしかな感覚があった。)
さらに後からやってくる
- 鍛冶の会のボランティアに応募しよう。 (会の活動は民家園(世田谷区)のボランティアで、年一回の募集のみ。このゼミには間に合わなかったが、火(炭火)との関わりでもあるし、非営利の鍛冶場は今では全国でもここぐらいしかないのでは、という会員の方からのお話にも惹かれて、応募してみた。それなりの応募数があったようだが、ありがたいことにこの4月から「野鍛冶見習い」になることができた。)
即応しない形のcorrespondenceもある。ちゃんと何かを受け取っていれば、後からそれに応えることができる。インゴルドが遠き日の「文通」にもなぞらえているのは、そういうことかもしれない。
なお、フィールドノートをまとめる際には、見聞きしたことだけでなく、自分の反応(返した言葉や感じたこと、行動など)も一緒に記録するとよい、というアドバイスがあった。これも、問いに「出会う」または「気づく」ための「徴候」を捉えるために役立つのだと思う。
「わかり方」にまつわる雑記
多色刷り版画のように
ゼミの中で、フィールドワークに「通う」ことについて比嘉さんが話をしてくれたことがあった。繰り返し足を運べる(この日しかない、というような特別なイベントなどではない)フィールドであれば、一回で全部を見ようとしなくてもいい。そう思うと大変だし、二回、三回と通っているうちに、前回までは見えなかったことが見えてきたり、起きなかったことが起きたりすることもあるから、といった趣旨だったと記憶している。
この話を聞いて、フィールドワークは(たとえば「写真を撮る」よりも)「版画に似ている」のかもしれないと思い、そういう話をした。多版多色刷りの版画は、まず一色刷って、その上から次の一色を刷って、を繰り返していくことで画が浮かび上がってくる。最初の一、二色を刷った段階では、何の画なのかまったくわからないこともある。でも、一色ずつ版を重ねていくと、余白が埋められていき、色の重なりとして表現される色も見えてきて、あるところで一気に画になる。
フィールドワークを通して何かが見えてくる、わかるということも、そうやって「重ねていく」ことで、あるタイミングで「一気に」やってくるものなのかもしれないと思った。そして、重ねていけばいいのであって、一回で全部を目指さなくていいという言葉には、とても救われる思いがした。
ゼミ展を終え、一息ついて迎えた4月。メッシュワークのロゴデザインや、ゼミ展のキービジュアルなどのデザインを担当されている高橋真美さんの作品展示に行ってきた。リソグラフという日本で生まれた印刷手法を写真表現に用いるという試みだった。リソグラフの原理はまさに他版多色刷り版画そのもの。
展示を見ながら真美さんからいろいろと裏話なども聞かせていただくなかで、特に興味深かったのが、刷り方の話だった。同じ色の組み合わせでも、刷る順番次第で、まったく違う仕上がりになる。しかも、重ねていくから後(上)に刷った色の方が強くなるのかと思ったら、実は先に刷った色の方が強く出る。
フィールドワークも、一回ずつ、重ねていけばいいのだとしても、その「重ね方」にはコツがあるのかもしれないし、重ね方次第で行き着くところが変わるのだろう。
他者をわかろうとする?
オートエスノグラフィーや当事者研究といった手法や領域があることは知っていた。とはいえ、人類学は基本的には「他者をわかろうとする」営みであって、このゼミでの自分自身の活動もそのように捉えるべきなのではないだろうか、という漠然とした考えをしばらく持ち続けていた。その一方で、そもそも自分は「他者をわかりたい」と思ってこのゼミに参加しているわけではない、という思いもだいぶ早い時期から抱いていて、実際にそういう話をしたこともあった。
今振り返ってみると、このゼミで自分がやってきたのは、「他者を通じて自分自身をわかろうとする」ことだったと思う。そんなことを共有したら、水上さんから人類学者である山口昌男の引用を紹介していただいた。
「すぐれた人類学」とは、己の価値で他者を量るのではなく、他者を媒介として己を量りなおすところにある筈です。その娯しみが無ければ、どうして、家族を故国に残して乏しい予算で二年も三年も、すべてが、「他者」である異郷にあって、己の価値を絶えず破壊し続け、「他者」との対話によって再構築し世界を捉えなおすといった緊張度の高い生活を耐えることができましょうか。 (山口昌男「調査する者の眼--人類学批判の批判」展望 1970:88)
言わずもがな私には「すぐれた人類学」とは何かを語ることはできないが、この言葉にはとても勇気づけられたし、「他者を媒介として己を量りなおす娯しみ」というものを、このゼミを通して少し知ってしまったようにも思う。
スイングバイ
[水上さんと松薗さんのstand.fm『まわる人類学』を]聴きながらゼミのことをぼんやり振り返りつつ、ふと、「スイングバイ」が思い浮かびました。たしかに「まわる」とか螺旋的なイメージには共感しつつ、「変容」が一様な軌道やスピードでないことから、円形とかきれいな螺旋状とはちょっと違う気も。あと、自分の意思でどこかに分け入っている(少なくともそのきっかけは自分にある)とは言えそうでも、まわり始めたらそこには別の力がはたらき始める、、 と考えたときに、宇宙において天体に接近しその重力を利用して軌道を変更しつつ加速するこの手法のイメージがなかなかしっくりくるかも、と思いました。(スイングバイのタイミングは、フィールドにいるときであったり、ノートにまとめているときであったり、はたまたお風呂の中だったりいろいろするけど、ぐいんとその瞬間何かに引っ張られ、次の瞬間には見える景色が変わっていることは共通している、みたいな感覚があります。)Discordへの投稿(2024.03.22)、一部書き換え
フィールドワークにおける「他者」とのかかわり合いには、宇宙船と天体のような関係性がある、とも捉えられるように思う。
メタモルフォーゼ
インゴルドは、参与観察は人類学者や社会学者が生み出したものではなく、もっと前から、ドイツの劇作家であり色彩論など自然科学の探究者でもあった、ゲーテがその達人だったと説いている。そのゲーテは、動植物のメタモルフォーゼ(変態)について記している。このゼミで体験した自分自身の変容は、変化というよりもメタモルフォーゼに近いものではないかと思う。
展示を見に来てくださった人類学者の中村寛さんも、「メタモルフォーゼは人類学の醍醐味のひとつ」というようなお話をしてくださった。
あいだに(エピレマ) そうだ 自然の観察に際しては 「一と全」とに眼を注げ 内にあるものもなければ 外にあるものもない 内がそのまま外なのだ さあ ためらわず摑みとれ 広く知られた聖き神秘を ——— さあ 眼をひらけ 真実の現象に さあ たたえよう 真剣な戯れを 生きるものは「一」でなく それはいつでも「多」からなる ゲーテ(高橋義人 編訳)『自然と象徴—自然科学論集—』
寄り道、そぞろ歩き
ゼミ同級生のムラカミさんから、ゼミ展初日のトークイベントでの他己紹介で「寄り道する力がすごい」と言ってもらった。ここでいう「寄り道」ってどういうことなのか、はっきりとはわからないと思いつつとても嬉しかった。その後もなんとなく考え続けていて、ふと数年来の友人たちにも意見を求めてみたら、拍子抜けするほどあっさりと答えが出た(出してもらった)。寄り道が得意なのではなくて、むしろそれしかできない。ゴールが「見えて」しまったら、その時点で興味を失ってしまう。だからゴールまでたどり着かない。つまり、歩みを進めている限りそれはいつまでも「寄り道」でしかない。
私は少し極端なのかもしれないが、突き詰めれば誰にとっても、本当の意味での「ゴール」なんて、そうそうないのではないか、とも思う。
実は3年以上前から、『そぞろラジオ』という実際に散歩をしながら収録するポッドキャストをその友人たちと3人でやっている(収録するだけでなかなか更新はされない)。留学中には「Walking as Research Practice」という授業で、ソルニットを読んだり、ブルックリンの墓地からマンハッタンのキャンパスまで地図を使わずに歩かされたりもした。機械式の腕時計はそういうときに故障することがあるし、橋を渡るには岸辺を目指せばいいとは限らない。
比喩としても、実際の行為としても、寄り道すること、そぞろ歩くことは、私にとっては欠かせない、というか、そうせずにはいられない何かなのだろうと思う。
著作家のレベッカ・ソルニットは、歩くことや(道に)迷うことについて多くのことを記している。前述の授業で読んだ中で特に印象的だったのは、「何もしないにいちばん近いのは歩くことである」という主張だった。たしかに「何もしない」でいることは難しい。歩くことだって、歩いている以上「何もしない」ではもちろんないわけだが、走るよりはそれに近いし、瞑想などのもっと静的な行為よりも簡単だと思う。そういう「最低限のアクティブさ」の行為という意味で、歩くことと火を焚くことは案外似ていると感じる。
Thinking is generally thought of as doing nothing in a production-oriented society, and doing nothing is hard to do. It's best done by disguising it as doing something, and the something closest to doing nothing is walking. Rebecca Solnit, “Wanderlust: A History of Walking”
手放す
在廊できなかったタイミングで展示を見に来てくれた友人(『そぞろラジオ』のもう一人のメンバーでもある』)が、その感想としてこのキーワードをくれた。奇しくもトークイベントで自分が語ったことでもあり驚いた。以下、彼女への返信の一部。
もし、自分にとっての、今回のゼミの過程と、そのひとつの表現・共有の場としての展示を、一言で表すなら、まさに「手放す」だな、と思っています。 近場で気軽に焚き火ができる場所を「見つける」こと。 焚き火のことばかり考え続けること。 社会人としての役割を果たし続けること。 イメージを先に持って、それを具現化させるべく形にしていくこと。 ちゃんと届くように、ていねいに「説明」したり、そのための「整理」をしようとすること。 そして、自らの形や、それを維持しようとする力を持っている縄を、自分の思うようにコントロールして、グレーのシーツに縛りつけること。 こういう自分のエゴや意図のようなものたちをひとつずつ手放していった結果、ああいう展示になりました。自分があの展示を「つくった」という感覚はなく、「ああなった」としか表現しようがない感じ。
そぞろ歩きを、あるいは徒歩旅行を続けていくには、歩き続けられるだけの身軽さを保つ必要がある。でも、歩いていれば、いろんなものに出会い、気づいていく。そんな中で新しいものを荷物に加えるためには、代わりに何かをそこに置いていくことが求められる。そうして何かをあえて手放すことで、出会い、気づけることがあるのだと思う。そして、本当に必要であれば、もし一度手放したとしても、そのうち自分がそこにまた戻って来る。そこで自分の足跡が交差する。あるいは、手放したものの方が、どういう経路をたどってか、手元に返ってくる。直近の『そぞろラジオ』の収録で、「今持っているものをこれからも持ち続ける必然性ってあるのか」という問いが出てきた。「今持っているから」以上の理由があるか、という問いかけでもある。
思索・試作・詩作
考えているだけでは本当に考えていることにはならないのだと、このゼミを通してつくづく感じた。ひたすら考え続けけることができる人も中にはいるだろう。ただ私の場合は、考えている「つもり」になりがちだったり、それを続けているとただ頭の中で何かがぐるぐるしているだけで、泥沼にはまったりおかしな方向に行ってしまうことが少なくない。そんな私には、フィールドワークが必要だった。そのことは、すでに述べた「健全さ」という言葉に集約される。
「考える」ということについては、ほかにもいくつか、このゼミを通して考えるようになったことがある。
まず、思索には適切な材料が要る、ということ。(これには「健全さ」の議論と重複する部分もある。)フィールドワークをしていると、そういう材料がどんどん貯まって(溜まって)いくので、いろんな思索が可能になる。そして、「後にどんな思索が可能になるとよいのか」は、フィールドワークの最中にはわからない。だからなるべくたくさん集めておく。これについては、ゼミが始まるより前に、比嘉さんがポッドキャストで語ってくださっていた。
何が関係するのか/しないのかを、その場その時に全てジャッジすることはできない。 今何か感じたちょっとしたことは、実は後から考えたらすごく大きな何かのサインだったというような気づきがあり得る。そういうことも含めて拾っておきたい、共有しておきたい。 だから、必要なことを必要なだけ、みたいにして切り分けていくことの方が、私はちょっと苦手なのかもしれない。 (メッシュワークでのミーティングが単線的ではなくて不思議だ、というインターンの田口さんの指摘に対する比嘉さん談) 『人類学者の目』2023.07.31配信回より
フィールドワークを体験する前の自分は、言ってしまえば「必要なことを必要なだけ」集めることすらせずに「ただ考えようとしていた」ような状態だった。材料がなければ料理のしようがないことは、至極当然のことなのに。
続いて、思索を深めたければ、どんどん試作しよう、ということ。
ここでいう試作は、何かものを(物理的に)形にする、ということに限らない。アイデアや気づきを文字に込めて共有するだけでもいい。断片的でも不完全でもまったく構わないので、誰かに共有できる状態にしてみること。そしてそれに対して何らかのフィードバックをもらうこと。そうしてみることで駆動する何かがある。
デザインの世界ではアイデアスケッチやプロトタイピングという形で当たり前に行われていることかもしれないが、このゼミを通じてそれらの重要性がようやく理解できた気がする。小さく速く、つくって出す。同時にそれは「スタンスを取る」ということでもある。スタンスは、個人的な思いや感情を表明するという直接的・意識的なものもあれば、つくることでそこには否が応でも自分の価値観が浮き彫りになる、あるいはそれを他者から指摘されて認識する、間接的・無意識的なものもある。(たとえば、前者は「焚火を対話に回収しないでほしい」という思いを、比嘉さんとの1on1や、ゼミ展に来られた方との会話の中でお話し、面白がったり共感したりしてもらえたこと。後者は、展示のプロトタイプをつくってみて、直線的な造形や時系列での展示は自分には向かないと感じたことなど。)
フィールドワークの度に作成したフィールドノートは、極力、客観的な記録にすることを心がけた。(自分の記憶を頼りにノートに起こすので、その時点で完全な客観ではあり得ないのだが、見たことや繰り広げられた会話の内容などを恣意的に捻じ曲げるようなことは絶対にしないよう常に意識していた。)そのような「記録」にすら、個人的な関心や価値観、つまり自分自身というものが表出する。むしろ、客観に徹しようとした上でなおも滲み出てしまう主観性のようなもの中に、凝縮された自分自信を見せつけられるような思いがした。
最後に、自分には詩作へのあこがれがある、ということ。
記録としてのフィールドノートはもちろん、ゼミ期間中に考えたあれこれの発露(=ゼミDiscordへの投稿たち)、ゼミ展の展示の一部としての文章、そしてこのレポートと、このゼミの中ではいろんなものを書いてきた(そのように仕組まれていた!)。もともと書くこと全般に苦手意識(喋る方がよっぽど楽という意識)があり、今でもそれは残っているが、それでも事実としてこれだけいろいろ書いてきた、ということはそれなりに自信になった。
その上で、文字表現として自分は、精緻に組み立てられた説得力のある文章よりも、論理性などが不完全でも鋭い洞察が込められたエッセイ(試論)のようなもの、さらにいえば、より断片的でも何かの核心を突いていると感じられる詩のようなものへのあこがれがある、ということがはっきりと自覚できた。このレポートは詩とはほど遠いが、ポエジーを吹き込みたいと思って書いているし、写真のキャプションは詩作の試作のようなものだと思いながら書いた。
地図を描いては消す
囲炉裏にくべられた薪は、いずれは灰となり薪を受け入れる側に回る。
世田谷には民家園のほかにも文化財として一般に開放されている邸宅や庭園がある、という会話の流れで、海老原さんがおもむろにトングを手に取り、成城学園前駅付近の地図を描き始めた。砂よりも更に細かい灰の粒子は、「ペン先」をやわらかく受け止める。
こんなふうにさらっと地図を描き、描き変え、消してはまた書き直すようなことができたら、いろいろ楽しいだろうなと思う。
自分の過剰投資
クルミドコーヒー/胡桃堂喫茶店の店主である影山知明さんは、一冊目の著書である『ゆっくり、いそげ』の中で、「健全な負債感」について書いている。その場ですぐ精算せずに、「もらいすぎてしまったな」という感覚を残すことで、「またきちんとお返ししよう」と思える。そうすると一回限りの交換(取引)で終わらずに前向きなご縁がつながっていく。やりとりを安易に経済活動に還元しないこと、とも言える。
フィールドワークの中では、「データ」として何かを奪っている(搾取している)とは感じなかったが、いつも何かをもらっている、という感覚があった。(民家園の敷地内で採れた大根や小松菜をいただくこともあったが、そういう意味ではない。)これが「健全な負債感」として常にあったことが、民家園に通い続けることができたひとつの理由なのではないかと思う。
同時に、民家園の方々へ、というわけではなく、自分自身の時間やエネルギーを、このゼミというよくわからない営みに「過剰投資」している感覚を覚えたことは一度や二度ではない。なぜやっているのかという問いへの答えに窮するような何かに、身を投じてみる。具体的な見返りを求めずに、自分の「無理のない範囲」を超えてみる。無意識に自分の内側に設定されているハードルを飛び越えてみることで、得られるものが間違いなくある。
このことも、実は影山さんが別の場で語っていた。
今ならなぜ「過剰投資」に意味があるのか、少しわかる気がする。過剰さとは、非合理さである。つまり既存の尺度や規範から脱することになる。そうすると自分の好きや価値観がそこに見えてくる。
「健全な負債感」と自分の「過剰投資」。経済活動の外にあるもの、あるいは経済的合理性のない行為。これらもフィールドワークにおけるキーワードだったと思う。
謝辞に代えて
親愛なるインゴルド先生
『メイキング』に出会い、correspondenceに魅せられ、メッシュワーク(のお二人とその活動)へと導かれた。『メイキング』の中では、紐(縄)づくりについての考察も展開されている。ライフ・オブ・ラインズとその絡まり・結び目、そしてそれらの総体としてのメッシュワークも、全部インゴルドだった。自分が「焚き火」というテーマを中心に探究してきたことは、彼の歩んだ軌跡の一部を追いかけたに過ぎないのかもしれない。それでも構わないと思うし、それ「だけ」ではなかったはず、という思いもある。
インゴルドが来日すると聞いて、彼が登壇するデザインカンファレンスに申し込んだ。カンファレンスはちょうど、このゼミの最初期に開催された。キーノートプレゼンテーション自体は、どういうわけか彼の英語も同時通訳の日本語もほとんど頭に入らなかったが、その後の休憩時間にラウンジにいると、奥様とおぼしき女性と二人でインゴルドがやってきたので、様子を見ながら思い切って声をかけてみた。
5月までニューヨークの大学でデザインを学んでいたこと。correspondenceに感銘を受けて、焚き火をテーマに自分なりにその実践を模索していること。気持ちだけが空回りし、英語の拙さもあいまってその気持ちが伝わった手応えはあまりなかったが、1つ明確な質問をすることができた。
「correspondenceの実践においては、耳を傾けること、聴くことが大切だと理解しています。そこで、「ちゃんと聴く」ためにはどうしたらいいでしょうか。」
「聴くということも、一方的なものではない。相手との共同作業であるということを忘れないようにすることだね。」
私は、世の中には能動性が前提の表現や使役動詞が使われる場面が多すぎると感じている。だからこそ、まず聴くこと(受け取ること)を意識したいと思っていた。しかし、その私自身にも「聴く」ということを無意識的に能動的(もっといえば自己中心的)な行為と捉えている部分があり、それはインゴルドが語るcorrespondenceではない、ということに一瞬で気づかされた。インゴルド本人とこうして言葉を交わすことができたことは、生涯の宝物のひとつになると思う。
この体験もさることながら、インゴルドが公に発信しているものの中で、(そのうち私が触れてきたものの中で、)最も凝縮されていると感じるのが、ヘルシンキでのカンファレンスにおけるプレゼンテーションだ。サイエンスとアート、データ(量的・質的)、correspondence、参与(参加)、方法と方法論。1時間近いこの動画を10回以上は観ていると思う。
Research is and must be the pursuit of truth. Tim Ingold, “The Art of Paying Attention,” Keynote presentation at the Art of Research 2017
インゴルド先生、このゼミでの探究がいわゆる「リサーチ」と呼べるものなのかはよくわかりません。ただ、この歩みは自分にとって間違いなく”a pursuit of truth”であったし、これからも、ひとりの”pathfinder”として、それを続けていきたいと思っています。
P.S.
私なりのcorrespondenceの実践を通して知り合った、というよりもその拙い実践の相手をしてくださった、海老原洋子さんという方は、インゴルド先生とほとんど同い年だそうです。幼い頃から藁仕事や火に親しみ、歳を重ねてもユーモアとあふれる好奇心をお持ち彼女と、インゴルド先生をお引き合わせすることができたら、きっと楽しい炉端での対話になるのではないかと思います。
複数の生が重なりあうところ
ゼミ展の副題がこのように決まったと、メッシュワークのお二人からアナウンスがあったとき、正直にいうと、自分自身はそういう「ところ」には身を置けていないのではないかと思った。でも、民家園に繰り返し足を運び、縄綯いを教わるようになっていくうちに、その思いは薄れていった。
そして、最終的には、展示期間を通して、多くの友人や、初めての方たちととても貴重な交流をすることができた。
何よりも、このゼミという場が、私たち受講生一人ひとりとメッシュワークのお二人という生が「重なりあうところ」だった。
このゼミを生み出し、あらゆる形で私たち受講生をサポートし、ときに溺れている姿を愉快そうに見守ってくださった比嘉さん・水上さん、陰で支えてくださった田口さん・井潟さん、いろんな苦楽(比率にすると2:8くらいでしょうか)をともにしたゼミ2期同級生のみなさん、先人としてアドバイスやていねいなフィードバックをくださった1期生のみなさん、展示数日前の相談に快く応じ、展示をこの形に昇華させてくれたPoieticaの奥田宥聡さん、展示前夜に初対面でいろいろとアドバイスをくださった上にピンを貸してくださった高橋真美さん、どうもありがとうございました。
海老原さんをはじめ、岡本公園民家園でお世話になったシルバー派遣職員のみなさん、彼女らからの縄綯い指南を許可してくださり、また4月からのボランティアとして受け入れてくださった、民家園係をはじめとする世田谷区役所のみなさま、どうもありがとうございました。
展示会場としてスペースを提供していただき、店内BGMについてなど面倒な要望にも丁寧に対応いただいたゆうこさんはじめCOMMUNITAのみなさん、どうもありがとうございました。
展示を見に来てくれた、あるいは来場は叶わずともトークイベント動画を観てくれたり、何かと気にかけてくれた大切な友人たち、そして、初対面でもじっくりと展示と向き合い、展示という焚き火を一緒に囲みながら言葉を交わしてくださったみなさま、私が不在の間も含めて、展示を見てくださったり展示の一部として置いておいたノートに感想やメッセージを寄せてくださったみなさまにも、この場をお借りして、心からの感謝をお伝えできればと思います。どうもありがとうございました。
そして、妻と娘へ。相談せずにこのゼミに申し込んでしまって本当にごめんなさい。それでも、そんな過ちを許し、展示にも足を運んでくれてありがとう。おかげで、これだけの経験をさせてもらうことができました。
むすんでひらいて
もうすぐ3歳になる娘はこのうたをよくうたっている。
ところで、結婚式などの終宴は「結び」と呼ばれ、結びを迎えたその場は「お開き」となる。
結んだと思った次の瞬間には開かれるというのはどういうことなのだろうと、結婚式に参加する度にぼんやり考えていた。
結びとは点で、その結び目の先は線として、続いていく(開かれていく)。
結ぶことは、開いていくことと表裏一体なのだ。
そのことが、この長いレポートを書いている中で見えてきた。
メッシュワークゼミ2期のひとつの結びに当たり、そのことも記しておきたい。
今日も楽しそうにうたっている娘と、このゼミのことを話す日も、いつか来るかもしれない。
2024年4月 河村憲一(ゼミ生ネーム:ken ken)