「休む」つもりがワークしていた6ヶ月(坪井 美沙樹)

応募時(8月)

仕事を辞めるタイミングだったこともあり、次は何をしようかと考えていました。 家で過ごすことが増えた2020年頃からPodcastを聞くようになり、そこで「文化人類学」を初めて知りました。雑な感想ですが「すごい興味ある!こういうアプローチいいな~」とワクワクしたのを覚えています。
もっと人類学について知れる場はないかな?と軽い気持ちで検索していたら、巡り巡って「合同会社メッシュワーク」という存在にたどり着きました。辿り着いたその日はちょうど「メッシュワークゼミナール第2期」の募集開始日でした。

参加の動機は?

前職で”発展途上国”と呼ばれる国を対象に仕事をしていて、現地に足を運ぶことも多くありました。現地の方と過ごす中で、これはただの好意なのか、下心なのか、バカにされているのか、普通なのか、裏があるんじゃないか?等と、なんとなく常に疑いの目で相手を見ていることや、面倒事に巻き込まれないために、距離を取っている自分に気が付きました。相手のことをもっと理解できたら、どうしたら相手を理解できるのかがわかっていたら、変な疑いや壁を設けずに関係を築ける様になるのでは?という期待がありました。
 
相手を理解できていないと感じたのは、”異国”にいた時だけではありませんでした。 同じ職場で働く日本人に対しても、相手の言動の意図がわからないままに、自分が思う正論をぶつけて衝突したり、すれ違ったりしているのを感じていました。私が正論だと思っていることは果たして正論なのか?どうしてそれを正論だと思っているのか?相手にとっての正解は何なのか?同世代と密に過ごす学生生活を終え、社会人になるとそんな疑問が湧いてくるようになりました。 もっと他者の価値観を分かりたい。その過程で、自分にとって当たり前過ぎて認識すらしていないような自分の価値観や、自分に欠けている視点にも気づきたい。人類学的なアプローチはそれに役立つのでは?という期待がありました。 ちょうど仕事を辞め、仕事ってなんだろう?私にとって仕事とは?これから仕事とどう付き合っていこう?そんなことを考えたいタイミングだったことも、”色んな価値観を分かりたい”気持ちに繋がっていたように思います。いつの間にか増えた、自分の中での「~べき」を崩せたらもっと生きやすくなりそうだなと考えていました。
 
応募フォームに記載するほどでもない密かな期待として、ゼミをきっかけにドイツで暮らす人と交流が生まれるのでは?という思いもありました。 応募時は、ドイツで暮らし始めて2年が経過する頃でしたが、平日は所属する日本企業とのリモートワークでずっと家におり、誰かと交流するきっかけになるような趣味もなく、夫以外の人間とオフラインでの交流がほぼない状態でした。ここに居るのに、ここの人たちには認識されていない感じをちょっと寂しく思っていました。”フィールドワーク”は、私がドイツに住む人たちと関わるための良い理由になってくれそうだなと考えていました。

応募時に考えていたテーマ

「ドイツ人の休み方」を観察のテーマとして考えていました。 天気がいい日の草むらや、旅行先のビーチでのんびり休む余裕は何処から生まれるのか。休むために仕事をしているように(私には)見えるドイツ人が、休みの日に何を考え、何をしているのか。休むために、どんな平日を過ごしているのか。“休み”という自由時間の過ごし方/向き合い方を通して、今の自分とは異なる人生観が見えてくるのでは?と考えていました。
応募した時期は夏だったこともあり、私も草むらでゴロゴロしながら、周囲の人を観察したら楽しそうだな~とぼんやり考えていました。
8月のドイツ某所
8月のドイツ某所

ゼミが始まって(9~10月)

最初は課題図書を読み、皆さんと感想を共有し合いました。 「あなたは観察するということを、他者を描くということを、こんなふうに捉えていませんか?でもそれって本当ですか?」と問われ続けているような感覚でした。まだ自分でフィールドワークしていないのに、既に私の尺度を崩された感じがして面白かったです。
 
10月には静岡で参与観察の基礎を学ぶフィールドワーク(1泊2日)を行いました。 課題図書を読んで、人類学的な姿勢みたいなものがぼんやりわかった気がしたけれど、実際自分がフィールドワークする際にどうすれば良いのか、全然具体的に思い浮かんでいない状態で現地へ向かいました。この時の記録はnoteにもまとめたのですが、個人的に一番学びになったのは、フィールドノートの取り方だったように思います。
1日目の終わりにフィールドノートを書こうと思った時、今更ながら「フィールドノートって何だ?」という疑問が湧きました。よくわからないまま1度ノートを書ききってみた後、共有されていたゼミ生のフィールドノートを見て初めて、自分の書いたものはフィールドノートではなく、ただ情報を羅列しただけのメモだと気づきました。
私が作ったノートでは、【フィールドで見たこと聞いたこと】【気づき】【今ある問い】という項目別に、時系列も関係なく思いついたことや情報を箇条書きにしていました。その方が振り返りやすいと思っていたからです。課題図書を読んだときに、フィールドワークは情報をコレクションして羅列する作業ではないと頭ではわかったつもりでしたが、思いっきりやらかしてしまったなぁと思いました。
私の中では今のところ、フィールドノートは、自分やその周りで起きたこと/見たこと等を、他の人が読んだ時にもある程度情景が浮かぶレベルで時系列的にまとめたもの(小説を書くようなイメージ?)だと思っているのですが、その様に記録をしてみると、出来事が起きたその時々に自分が感じていたことが思い出されてきて、自分が物事をどう見ているのかが客観的に見やすくなったり、見たこと経験したことを元に小さな問いが浮かんできたりするのを感じました。書いている時点ではどう解釈したら良いのかわからないけれど、なんとなく気になる小さな出来事も記録されやすいように思います。
箇条書きのメモも役に立たないわけではなく、”情報”として得たものをわかりやすく整理できたり、そもそも何が見たかったんだけ?と原点に立ち返ってみたりするのには良いと感じました。こちらのメモの方がむしろ”何か気づきを得た感”は強かったりもしました。ただ、小説っぽく書いてみたフィールドノートと見比べると、最初に立てた問いの延長線上で、表面的でわかりやすく印象に残ったことが散り散りに記録されている感じや、フィールドを置いてけぼりにして空中で論を展開しているような感覚もありました。
今まで、”記録”は見返すためにするものだと思っていたのですが、書いている過程で”気づくため”にすることでもあるのかもと思うようになりました。ノートを書いていると、他人には隠しておきたいような自分の心の声もどんどん出てくるので、最初はフィールドノートを共有することにビクビクしていました。
フィールドノートと葛藤中、ホテルのお茶は静岡産か気になりパシャリ
フィールドノートと葛藤中、ホテルのお茶は静岡産か気になりパシャリ

フィールドが決まるまで(10~11月)

10月中旬からは、各自のプロジェクトを進めていく段階に入りました。
応募時に考えていた、「ドイツ人の休み方」をテーマに、どこでどのように観察するのが良いか、ゼミで皆さんからコメントを頂きつつ考え始めました。10月にもなると、少々肌寒くなってきたこともあり、草むらでのんびりしているように見える人も減っていました。そもそも「のんびりしている」ってどういう状態か?という問いにもぶつかりました。
静岡でのフィールドワークの際に、問いを無視して行き当たりばったりで観察しすぎてしまい、何が分かった/分からなかったかを抽出できなかった感覚があったので、ちゃんと問いを据えてから外に観察へ出ようと考えていましたが、家で考えていても全然進まず、とりあえず外に出て、見たものや体験したことを振り返ってみました。
ドイツに戻り、家の周りを散歩してみたときのこと、詰め物が欠けてしかたなく行った歯医者、路面電車で終着駅に行ってみたこと…ちょっとした面白い出来事はいくつかあったし、記録を書いてみると意外と気づくことや気になることも出てきました。ただ、そこから”テーマ”に据えるような問いや対象を中々決められませんでした。強い興味が湧き上がってくるような”分かりたいこと”が思いつくことを期待しすぎてしまっていたようにも思います。ちょっと湧いてきた興味に飛び込んでみて、それで上手くいかなかったらどうしようという気持ちもありました。
観察する何かを求めて、料理教室やスタムティッシュと呼ばれる集まりにも参加してみましたが、いまいちその場やそこにいる人達に入り込めない感覚がありました(入り込む勇気が無かっただけと言えばそれまでなのですが…)。そんなこともあり、いつの間にか「興味があるか」というよりも「ここなら参与できるかな~」という視点で周りを見るようになっていました。
路面電車の終着駅周辺は、私が住んでいる街の中心部よりも人が少ないからか、すれ違う人を1人1人認識できる感覚があり、ここならなにか見つかるかもという期待もあって何度か足を運びました。その中で偶然、牛の放牧エリアに辿り着き、そこに居た牛と目が合った時、なんだか心が洗われた感じがしたのをきっかけに、「ファームステイ」という選択肢が浮かんできました。調べてみると、自宅から1時間程度の場所で受け入れてくれそうな農場が見つかり、私は農場に足を運ぶことにしました。
目が合った牛たち
目が合った牛たち
結局そんな行き当たりばったりな理由で、私はフィールドを決めました。
決めた当時は、「興味のあるテーマを見つけることから逃げた」というちょっとした後ろめたさがありましたが、今振り返ると、興味があると自信を持って言えるテーマが見つかるに越したことはないのかもしれないけれど、とにかくフィールドに巻き込まれちゃえば、どんどん自分ごとになっていって、自分ごとになると興味も問いも湧いてきたりするとも感じています。
ゼミ生の皆さんと進捗を共有してみて、興味を持つきっかけも、書籍や情報、映画や音楽かもしれないし、実際に体験したことかもしれなくて、こうやって決めるのが正解!というものは無いように感じました。

農場でのフィールドワーク(12~2月)

12月から農場に通い始めました。フィールドに居たときの感覚は、普段の私と変わらなくて、気になったことや出来事を忘れないように細かくメモしようという心持ちはあったし、それはやっていたけれど、〇〇を見たいからこのように立ち回ってみよう…とか考えているどころではなく、その場の出来事に巻き込まれながら私として生きていた感覚でした。
参与するって、そういう感覚かもと思う一方で、それは私が観察しているということを相手に伝えていなかったことや、問いを持ちきれなかったことも関係しているように思ったりもします。自分の中に浮かんでくる問いが、なんだかちっぽけに思えて、立派なかっこいい問いを立てなければと何処かで思っていて決めきれなかったように思います。浮かんできた問いはちっぽけでも、ちゃんとキャッチして、一旦深く潜ってみることで、もっと見えたものや、もっと議論できたこと、思考の広がりがあったかも(それをもう少し試してみても良かったかも)と思っています。
問いの粒度を決めるのも難しいと感じました。「働き方」だとざっくりすぎるけど「農家の働き方」だと農家についてすごく知りたいわけでもないからいまいち興味がわかなかったり。興味があるものの言語化に手こずっていたように思います。
反省点はあるものの、農場に通い、フィールドノートを書いていくことで、認識が変わったこともありました。農家だから食の健康意識が高いのでは?好きだから(幸せを感じるから)農家をやっているんだろう、忙しく働いた先に得たいものがあるんだろう、そんな思い込みで相手を見ていたことに、どんどん気付かされていきました。自分もそんなに論理的に生きていないのに、相手の生はシンプルで論理的だと思って見ている私が居ました。
私は「ファームステイ」という切り口でこの農場を見つけ、通うようになったため、相手を”農家”と呼んでいましたが、農業以外にも様々な事業を行っているこの人たちを”農家”と思って良いんだっけ?そもそも私もファームの手伝いはあまりしていない気がするけれど、これは「ファームステイ」と呼んで良いんだろうか?そんなところにも立ち返らされました。
農場でのいつもの食卓風景
農場でのいつもの食卓風景
フィールド内外の自分が別々のものではなく、影響し合ったり、気づきを与え合ったりする感覚もありました。フィールドで相手を観察しようという姿勢でいると、この人はどう思ってこの行動をしたのかな?と考える癖がついてきて、満員電車の中でイライラをぶつけられても、この人は今日ここまでにどんな一日を過ごしていたのかな?と考え始めちゃうようになったり、友達との日常会話で、相手の話を勝手に解釈しちゃったと感じる出来事があり、フィールドノートに記録したことも自分の解釈が入り込んでると思って見たほうが良いなと気づいたり…。

展示準備中(1~3月)

展示について考え始めた頃は、見に来てくれる人が楽しめる展示をと考えていましたが、何も思いつかず時間だけが過ぎて行きました。結局、見る人に気をつかっていられないくらい締切が近くなり、開き直って、自分はフィールドから何がわかったのか、頭の整理をする場として展示を使おうというスタンスに切り替えました。
とはいえ、書き溜めたフィールドノートたちを前に、何処を切り取って何を整理したら良いのか悩みました。色々面白いと感じる出来事はあったけれど、こんなふうに切り取ってもその面白さは伝わらないんじゃないか?と考えてしまい、中々作業は進みませんでした。
せめてフィールドの基本情報が分かるようにと資料を作り始めると、大学のゼミ発表とか仕事の説明資料みたいな味気ないものが作り上げられていく感じがして、私が作りたかったのはこういうモノじゃないんだけどなと思いながらも、それ以外は生み出せないので仕方なく作る…そんな心境でした。
いざ会場での設営が始まると、思ったより何でもかんでも貼るほどのスペースはなく、もっと違う作業に力を入れておけばよかった~という反省も出てきました。
最終的には、農場の登場人物(動物)、施設の概要図といった基本情報、私の農場訪問スケジュール、【なにを食べていたか】【誰とどう繋がっていたか】という視点で記録を取り出して整理してみたもの、ゼミを通しての気づきや感じたことを展示しました。展示を作りながら、なにか気づいたことがあれば付け足していこう…そんな気持ちで、展示も行き当たりばったりに出来上がっていきました。
展示の様子
展示の様子

展示を終えて(3月)

展示会の初日は、自分の展示に自信が持てず、前に立っていることができませんでした。
周りで展開される面白い展示たちに圧倒され、私は良い展示を作れなかった…としょぼくれましたが、その時にやっと「あ、私は展示を出したら終わりだと思っていたけれど、展示会という場に参与してみる機会は今始まったのか!」と気づいて、皆さんの展示の様子を見せていただいたり、自分の展示を見てくださる方に接近してみたりすることができました。
いざ、自分の展示の前に立ってみると、思いがけないポイントを面白がって感想を伝えてくださる方がいらっしゃったり、感じたことを共有してもらうことで新たな気づきや視点に辿り着いたりして、展示の面白さはさておき、私自身はとても面白い時間を過ごさせていただきました。
なにを受け取ってもらえるかは、私が図りきれることではなかったなと感じ、未完成と思うものでも一度外に出してみる勇気をもらえた気がします。

さいごに

改めて、最初に期待していたことを振り返ってみると、「他者の価値観を分かった」とは思わないけれど、わかろうと思いを寄せてみる経験はできたように感じています。その過程で、自分が持っている思い込みに気づいていき、問いが崩れ変化することも実感できたように思います。とはいえ、思い込みが消えるのではなく、新たな思い込みが生成されており、また相手も私も何かしら変化しているので、ここまでで”分かった”と片付けられることは究極無いという感覚にもなりました(それを悲観的には感じていません)。
どうしたら相手を理解できるのかがわかっていたら、変な疑いや壁を設けずに関係を築ける様になるのでは?という期待に関しては、「馴染みのない対象に対して、疑いや壁を設けない」ことは不可能かもしれないというのが今現在の感覚です。疑いや壁を作ってしまっている自分はあまり好きにはなれませんが、フィールドノートへ赤裸々に自分の思いを綴ってみたように、そういう気持ちがあるということをちゃんと自分の前に出してみることが、壁を崩していく手助けになるようには感じました。そこへ向き合うためのお守りを手にした感覚というか、そういう場面に遭遇することに、どこかワクワクしている私も居る気がします。
 
半年間のゼミのプロセスで、色々な「こうあるべき」に勝手に囚われたり、「こうなるんじゃないか」という想像で制限をかけたりしながらも、自分なりに動いてみると(というか、図らずもそのように動いてしまったような状況の中で)思いがけない気付きに出会ったり、落とし穴にハマったりしてみて、身を投じて巻き込まれてみないと気づかないことってたくさんあるなと感じました。
そんな風に思える経験をできたのは、ジャッジも強制もせず、時々囁きつつ、見守り続けてくれた比嘉さんと水上さん(簡単そうに聞こえるけれど、ここまで体現している人に私は初めて会いました)、どんなアウトプットも面白がってくれたゼミ生の皆さんが作ってくれたこの場があったからだと感じています。半年間、ありがとうございました。
やることを増やしているのか減らしているのか分からないけれども、温かく迎え入れ続けてくれた農場の皆さん、ゼミの場を支えてくれた方々、展示を見てくださった皆さん、気づきをくれる日常たち、私の日常を支えてくれた夫にも大変感謝しております。
これからも、なんとなく気になるアレコレを記録しながら、時々ぐいっと首を突っ込み、巻き込まれ、揺さぶられてみることは続けたいです。誰かのためというより、私が面白いからやりたいだけなのですが…!